巷に騒がれる、山本淳一殿:自分の名の番組を八年!?再びラジオの前へについて、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1972年2月28日、生誕。血液型はB型。
- 1987年、光GENJIのメンバーとしてデビュー。
- 事務所に所属しておった頃、新日本プロレスの道場にて稽古を受けておった。
- 1991年1月17日、『世にも奇妙な物語』の一篇にて主演を務める。
- 1994年4月10日、朝日放送ラジオにて自身の名を冠した番組が始まる。
- 1994年10月より、『八神くんの家庭の事情』に出演。
- 1995年、光GENJIの解散。事務所には残留。
- 1997年、『DRIVEしたいのに』にて主演を務める。
- 2002年3月31日、八年続いた自身のラジオ番組が終了。同年、事務所を退所。
- 2016年2月14日、プロレスラーとしてデビュー。
- 2022年夏より、本格的に芸能の活動を再開。
- 2023年4月5日より、Tokyo Star Radioの番組に出演。
- 2023年5月29日、佐藤寛之殿と共にユニット『ふたつの風』を結成。
【自分の名を冠した番組を八年】

山本淳一殿は1972年2月28日の生まれにござる。
1987年、光GENJIの一員としてデビューされた。十五の齢でござる。
さて、この御仁を語る際、歌と踊りの話ばかりが並びがちでござる。
だが吾輩が面白いと思うのは、声の仕事の方でござる。
1994年4月10日、朝日放送ラジオにて番組が始まった。
その名も『山本淳一のジャストインミュージック』。
自分の名を冠した番組でござる。
そして、この番組が終わったのが——
2002年3月31日。
実に八年でござる。
お主ら、これがどれほどのことか分かるであろうか。
ラジオというのは、顔が映らぬ。つまり見た目では一切ごまかせぬ場でござる。
喋りが面白くなければ、聴く者は離れる。そして数字が落ちれば、あっさりと打ち切られる。
それが八年続いたのじゃ。
しかも、この八年の間に光GENJIは解散しておる。
1995年でござる。番組が始まって一年余りの頃じゃ。
組が無くなっても、この番組はそのまま続いた。
組の看板ではなく、山本淳一という一人の名で続いておったということでござる。
ラジオという場について、もう少し語らせてくれ。
1994年といえば、まだ手の中に画面を持ち歩く世ではござらぬ。
夜、机に向かいながら小さな箱から流れる声を聴く。
そういう時代でござった。
そこに毎週、同じ声が流れる。
聴く者にとっては友のような存在になるのじゃ。
光GENJIといえば、車輪の靴で滑る華やかな組でござった。
その一員が、姿を見せずに声だけで喋る。
画面の中の遠い存在が、耳元まで近づいてくるわけでござる。
八年でござるぞ。
小学生であった聴き手が、成人しておる長さじゃ。
組が解散し、世の風向きが変わっても、この番組は残った。
そのことの重みを、吾輩は買いたいのでござる。
そして2002年3月31日、番組は幕を下ろした。
その同じ年に、この御仁は事務所も離れておられる。
一つの区切りが、重なって訪れたということでござろうな。
【主演も務めた役者としての顔】

画面の上でも、この御仁は数多くの仕事をされておる。
しかも、その多くが主演でござる。
1991年1月17日、『世にも奇妙な物語』の一篇にて主演を務められた。
「時間よ止まれ」という題の一篇でござる。
あの番組でござるぞ。一話ごとに趣向を凝らす、あの奇妙な物語じゃ。
1992年12月26日には『映画みたいな恋したい』の一篇でも主演。
そして1997年には『DRIVEしたいのに』にて全七話の主演を務められた。
1994年10月から翌年2月にかけては、『八神くんの家庭の事情』にも出ておられる。
映画の方も早い。
1988年には『ロックよ、静かに流れよ』『少年武道館』『ふ・し・ぎ・なBABY』と三本に出演。
十六の齢でござる。
そして1996年には、動く絵の映画にも友情出演しておられる。
忍びの子らの物語で、鬼の役でござった。
舞台の仕事も数多い。
1997年には京都の劇場での公演、2000年には子ども向けの音楽劇で全国を回っておられる。
岡山、島根、秋田、青森、岩手、宮城、山形。
夏の盛りに、これだけの土地を回られたのじゃ。
そして、この御仁にはもう一つ意外な顔がござる。
事務所に所属しておった頃、新日本プロレスの道場にて稽古を受けておられた。
しかも、名うての師のもとで毎日でござる。
歌って踊る若者が、昼間はプロレスの道場に通う。
尋常な熱の入れようではござらぬな。
この下地が、後の話に繋がるのでござる。
役者としての仕事を、もう少し並べておこう。
1988年に映画三本。同じ年に画面の物語にも出ておられる。
1991年には奇妙な物語の一篇で主演。
1992年、1997年にも主演作がござる。
つまりこの御仁は、
十代から二十代半ばまで、途切れることなく仕事を持っておられた。
歌の組に属しながら、である。
組の公演があり、ラジオがあり、撮影があり、そのうえ道場での稽古まであった。
一日が何刻あっても足りぬ話でござる。
そして舞台の仕事も見逃せぬ。
2000年の子ども向けの音楽劇では、夏の間に十を超える土地を回っておられる。
岡山、島根、秋田、青森、岩手、宮城、山形。
大きな会場ばかりではござらぬ。町の文化会館や市民センターも並んでおる。
華やかな場だけを選ばず、行ける場所へは行く。
この姿勢が、後の二十七年を支えたのやもしれぬのう。
【未来予想図-再びラジオの前へ】

さて、山本淳一殿の現在(いま)である。
2002年に事務所を離れられた後、一時は一般の会社に勤めておられた。
画面に出る広告を売って回る仕事であったという。
十五でデビューし、主演を張り、ラジオを八年持った御仁が、背広を着て売り込みに歩く。
こういう時期を経ておられるのじゃ。
その後は西日本へ移り、道後温泉にある店の長を務めておられたと報じられた。
そして2016年2月14日、かつて道場で汗を流した縁が形になる。
プロレスラーとしてのデビューでござる。
十代の頃に毎日通っておった道場の稽古が、二十年以上を経て実を結んだということじゃ。
そして2022年の夏より、本格的に芸能の道へ戻られた。
2023年5月29日には、光GENJIで共に過ごした佐藤寛之殿とユニット『ふたつの風』を結成されておる。
さらに——
2023年4月5日より、再びラジオの番組に出ておられるのじゃ。
八年続いた番組が終わってから、二十一年。
また、あの場所に戻られたのでござる。
2025年には、光GENJIの旧友を訪ねる番組にも顔を出しておられる。
十五でデビューし、
ラジオを八年持ち、
組の解散を経て、会社に勤め、温泉街の店に立ち、
リングに上がり、そしてまた歌い、また喋っておられる。
回り道と申すが、
どの道も無駄になっておらぬ。
道場の稽古はリングで、ラジオの八年はいまの番組で活きておるのでござるからな。
この先どのような姿でお主らの前に現れるか、吾輩も楽しみにしておるぞ。
最後に、この御仁の歩みを一本の筋で眺めてみようではないか。
十五でデビュー。
二十二で自分の番組を持つ。
二十三で組が解散。
三十で番組が終わり、事務所も離れる。
そこから背広を着て、広告を売り歩く日々。
そして温泉街の店に立ち、
四十四でリングに上がる。
五十で、また歌の道へ戻られた。
この上がり下がりの激しさよ。
並の者なら、どこかで折れておってもおかしくない。
だがこの御仁は、そのたびに次の場を見つけておられる。
会社勤めも、温泉街の店も、
本人にとっては苦い時期であったやもしれぬ。
だが、そこを通ったからこそ、
いま舞台に立つ姿に厚みが出るのでござる。
そして2023年から、またラジオの前に座っておられる。
八年続けた場所へ、二十一年ぶりに戻る。
これほど良い話が、そうそうあろうか。
そして共に立っておられるのが、同じ組で少年時代を過ごした佐藤寛之殿でござる。
三十年以上を経て、また二人で歌う。
組の名で歌うのではない。二人の名で歌うのじゃ。
回り道をした者にしか出せぬ音というものが、きっとあろう。
この先どのような歌がお主らの耳に届くか、吾輩も楽しみにしておるぞ。
【自分の名の番組を八年!?再びラジオの前へについてのまとめ】
今回は山本淳一殿について調査してみた!
吾輩は山本淳一殿に対して、自分の名の番組を八年持ち、二十一年後にまた声の仕事へ戻った御仁、と思ったんだがお主は山本淳一殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
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