巷に騒がれる、山本淳一殿:途中から加わった男!?光GENJIの八年について、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1972年2月28日、生誕。
- 1987年3月25日、光GENJIの前身である「初代GENJI」が四人で結成される。
- 同年、初代の一人が抜け、山本淳一殿が加わる。さらに一人加わり五人となる。
- 1987年6月25日、「GENJI」と二人組の「光」が合体し、光GENJIが結成。
- 1987年8月19日、「STAR LIGHT」でレコードデビュー。
- 1988年12月31日、「パラダイス銀河」で第30回日本レコード大賞を受賞。
- 1988年、オリコンの年間シングル売上にて一位から三位までを独占。
- 1988年2月から1992年10月まで、音楽番組『ミュージックステーション』に定期出演。
- 1994年8月31日、二人が脱退し「光GENJI SUPER 5」へ改称。
- 1995年9月3日、名古屋での公演を最後に解散。
- 解散後も事務所に残るが、2002年2月28日に退所。
- 2022年2月28日、動画の場を開設。
- 2023年5月29日、佐藤寛之殿と共にユニット『ふたつの風』を結成。
【初代GENJIに途中から加わった】

山本淳一殿は1972年2月28日の生まれにござる。
光GENJIの一員として知られる御仁でござるが、実はこの組への入り方が、少々変わっておるのじゃ。
話は1987年3月25日に遡る。
この日、光GENJIの前身となる「初代GENJI」が結成された。
その顔ぶれは四人。
そしてこの四人の中に——
山本淳一殿はおられなんだ。
そう、この御仁は始まりの場にはおられなかったのでござる。
初代GENJIは同年4月5日から歌番組に定期で出るようになり、自前の曲を毎回披露しておった。
ところが、その後に初代の一人が組を抜ける。
そこへ入られたのが、山本淳一殿でござった。
空いた席に、後から入ったのじゃ。
さらにその後もう一人が加わり、GENJIは五人となる。
そして1987年6月25日でござる。
この五人組の「GENJI」と、年長の二人からなる「光」が合体した。
こうして生まれたのが光GENJIでござる。
結成の時点で18歳以上であった二人が「光」、17歳以下であった五人が「GENJI」。
つまり組の名そのものが、年上と年下を分けて示しておったということじゃ。
山本淳一殿は、この時まだ十五でござった。
後から入った少年が、その二か月後には日本中を騒がせる組の一員になっておったのでござる。
人生というのは、まことに分からぬものでござるな。
組の名の付け方について、もう少し記しておこう。
「光」と「GENJI」。
この二つは、ただの飾りではござらぬ。
結成の時点で18歳以上であった二人が「光」、
17歳以下であった五人が「GENJI」でござった。
齢で二つに分けられた組ということじゃ。
そして年上の二人が、年下の五人を肩に乗せて滑る。
あの絵が、この組の象徴となった。
山本淳一殿は無論「GENJI」の側でござる。
十五でござるからな。
曲の題も、この組らしいものが並ぶ。
星、銀河、宇宙。
夢を主題にした曲ばかりであった。
売り文句が「超新星からのメッセージ」でござるからな。
そして初めて世に出た曲を書いたのが、
当時すでに名を成しておった二人組の音楽家でござった。
後に組の代表作となる曲も、この二人組の手によるものが多い。
後から空いた席に入った少年は、
気づけば日本で最も注目される七人の一人になっておったのでござる。
【年間一位から三位までを独占した八年】

1987年8月19日、光GENJIは「STAR LIGHT」でレコードデビューを果たす。
売り文句は「超新星からのメッセージ」でござった。
そして、この組の何が新しかったか。
ローラースケートでござる。
車輪の付いた靴を履いたまま歌い、踊り、そのうえ宙返りまでやってのける。
事務所として初の試みであったという。
これが当たった。それはもう、恐ろしいほどに。
では、どれほど当たったのか。数で申そう。
まず1988年、「パラダイス銀河」で第30回日本レコード大賞を受賞。
そして同じ年、オリコンの年間シングル売上にて——
一位から三位までを独占された。
お主ら、聞き違いではござらぬぞ。
一位も、二位も、三位も、全部同じ組でござる。
しかも上位十曲のうち四曲が入っておった。
これは1978年のピンク・レディー以来の快挙であったという。
年間のアルバム売上でも一位と九位を獲っておられる。
音楽番組への出演も凄まじい。
1988年2月から1992年10月まで、テレビ朝日の音楽番組に定期で出ておられた。
その総出演数、234回。
この記録は、いまだに破られておらぬ。
二位が143回でござるゆえ、いかに離れておるか分かろう。
ラジオの方も尋常ではない。
組の番組には、毎週十万枚を超える葉書が届いたという。
毎週十万枚でござるぞ。読み切れるはずがない。
さらに、ある非売品の映像を十万本配る企画には、およそ二百五十万通の応募が集まったと伝えられておる。
二百五十万でござる。もはや数の感覚が壊れる話じゃ。
後から空いた席に入った十五の少年が、この只中におったということでござる。
当時の熱狂ぶりを、もう少しお伝えしよう。
雑誌の話でござる。
若者向けの有名な月刊誌があるのじゃが、
その雑誌が歴史上最も売れた時期が、
ちょうど光GENJIの絶頂期に当たっておったという。
そして人気が過ぎた後は売上が落ち込み、
次の大きな組が現れるまで苦しい時代が続いたのだとか。
一つの組の浮き沈みが、雑誌の商いを左右する。
これほどの影響力でござる。
音楽番組に定期で出るようになった経緯も面白い。
その番組は他局の音楽番組より後から始まり、
当初は数字が伸びず、大層苦労しておったという。
そこで打った手が——
光GENJIを毎週出すということであった。
番組が組を選んだのではない。
番組が組に助けを求めたのでござる。
そして234回でござる。
1988年2月から1992年10月まで、四年半にわたって出続けられた。
毎週のように画面に映り、
毎週十万枚の葉書が届く。
十代の若者が浴びるには、あまりに大きい熱でござる。
その中を、山本淳一殿は駆け抜けられたのじゃ。
【未来予想図-ローラースケートは受け継がれた】

さて、その後の話をいたそう。
1992年には五輪の広報の役目を任され、応援の歌も出しておられる。
1993年には『勇気100%』を出され、これが忍びの子らの物語の主題歌となった。
この曲は後の世まで歌い継がれ、数多の後輩の組に歌われておる。
三十年以上を経て、なお子どもらが口ずさむ歌でござる。
これほど大きな遺産もござるまい。
1994年8月、二人が組を離れ、五人となる。
そして1995年9月3日、名古屋での公演を最後に解散された。
その少し前、9月1日でござる。
かつて定期で出ておった音楽番組に、最後の出演をされた。
客席にはご贔屓を数百人入れ、歴代の曲を続けて披露し、最後に「Graduation」を歌い上げられた。
そして曲の終わりに——
全員がローラースケートを脱ぎ、舞台の中央に置かれたのじゃ。
言葉ではなく、靴を置いて終わりを告げる。
これほど見事な幕引きが、そうそうあろうか。
吾輩、これを知った時は少々胸が詰まったわ。
だが、話はここで終わらぬ。
あの車輪の靴は、いまも受け継がれておるのでござる。
2023年3月、そして同年6月。
元の組の二人が、後輩の組と共にローラースケートで並んで滑られた。
披露されたのは『ガラスの十代』『STAR LIGHT』『剣の舞』。
三十年以上前の曲を、十代の若者たちが車輪の靴で滑りながら歌ったのじゃ。
そして山本淳一殿ご自身も、いまも歌っておられる。
2022年2月28日には動画の場を開設され、
2023年5月29日には、共に組におった佐藤寛之殿とユニットを結成された。
同年12月には作品も出され、
翌2024年には東京・名古屋・大阪を回る公演も行われておる。
後から空いた席に入った十五の少年が、
年間一位から三位までを独占する只中を過ごし、
解散を経て、五十を過ぎてまた歌っておられる。
この先どのような歌がお主らの耳に届くか、吾輩も楽しみにしておるぞ。
解散から後の話も、少し記しておこう。
1992年には五輪の広報の役目を任され、
1994年にも冬の五輪の応援の歌を出しておられる。
国の催しの顔として立つ。そこまでの組であったということじゃ。
そして解散から二十年余りが過ぎた2016年11月。
ある番組の企画で、かつての面々が四人揃ってローラースケートの対決に出られた。
その中に山本淳一殿もおられた。
十代の頃に履いておった靴を、四十を過ぎてまた履く。
その姿を見て、胸が熱くなった者も多かったであろう。
2017年にはデビュー三十年を記念した再結成の話も持ち上がり、
七人が実際に集まって会合まで開かれたという。
この席には、かつて数多の曲を書いた音楽家も呼ばれておった。
だが、事務所どうしの間の事情で白紙となった。
そのことは、後にその音楽家自身が明かしておられる。
惜しいことでござった。
だが、その代わりに動き出したものがある。
元の面々が、それぞれの形で音を出し始めたのじゃ。
二人組を組む者、動画の場を開く者、そして——
山本淳一殿は2023年5月29日、
同じ組におった佐藤寛之殿と二人で歩き出された。
同年12月には作品を出され、週間の順位で11位に入っておられる。
五十を過ぎての、である。
翌2024年1月には、東京・名古屋・大阪を回る公演も行われた。
そして2026年には、かつての組の曲が配信の場でも聴けるようになった。
十五で空いた席に入った少年の歌が、
四十年近くを経て、また新しい耳に届いておるということでござる。
最後に、あの日の解散の場をもう一度思い出してみようではないか。
1995年9月1日、音楽番組での最後の出演。
歴代の曲を続けて歌い、最後に別れの歌を熱唱し、
そして全員が車輪の靴を脱いで舞台の中央に置いた。
あれは、ただの演出ではござるまい。
この組にとって、あの靴こそが看板であった。
それを脱ぐということは、看板を下ろすということでござる。
だが、置いていった靴を拾った者がおった。
元の面々であり、そして後輩の若者たちでござる。
いまも舞台の上で、あの靴は滑り続けておるのじゃ。
組は無くなっても、始めたものは残る。
これほど幸せな終わり方も、そうそうござるまい。
後から空いた席に入った十五の少年は、
そのすべてを見てこられた。
この先どのような姿でお主らの前に現れるか、吾輩も楽しみにしておるぞ。
【途中から加わった男!?光GENJIの八年についてのまとめ】
今回は山本淳一殿について調査してみた!
吾輩は山本淳一殿に対して、空いた席に後から入り、桁外れの只中を駆け抜けた御仁、と思ったんだがお主は山本淳一殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
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