巷に騒がれる、桜井ユキ殿:きっかけは無かったと本人が述べておられる。
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1987年2月10日のお生まれ
- 福岡県の出であられる
- 小学3年の折、文集に「将来は女優になる」と記される
- 小学6年の折、地元の芸能事務所の面接を受けられる
- 2011年、俳優として世に出られる
- 2019年、『だから私は推しました』にて第46回放送文化基金賞の演技賞を受けられる
- 2021年、初の写真集『Lis blanc』を出される
- 2023年4月19日、『anan』の取材に答えられる
- 2023年、『ホスト相続しちゃいました』にて民放の連続ドラマ初主演を務められる
- 2025年4月1日、転機について取材に答えられる
【桜井ユキの実家に、芝居の下地は無かった】
「桜井ユキ殿の実家はどのような家か」と申す問いが、よう検索されておる。
――芸の家の出ではないか、と見る向きもあるようじゃ。
この問いには、本人が直に答えておられる。
2023年4月19日号の『anan』にてな。
話は、小学3年の頃まで遡る。
「小学校の文集か何かに『将来は女優になる』と書いていました」
――小学3年でござる。
では、何がそう思わせたのか。
そこがこの話の妙でござってな。
「ただ、ドラマをすごく見ている子供でもなかったですし、親がたくさん映画を観る環境で育ったわけでもなくて、きっかけがはっきりとあったわけでもないんです」
――お読みになったか。
実家に芝居の下地は無かった。
本人が、そう述べておられるのじゃ。
――憧れた役者がおったわけでもない。
毎晩ドラマを観ておったわけでもない。
それでも、小学3年で決めておられた。
そして三年後、この御方は動かれる。
「小学6年生の頃に地元の芸能事務所に応募して、親に黙って面接を受けに行きました」
――小学6年で、独りで応募でござるぞ。
しかも親に黙ってじゃ。
むろん、そう上手くはいかぬ。
「当然ですが、『ご両親とお電話で話さないと』ってことで、すぐにバレて『何やってんだ!』と怒られました(笑)」
――事務所から家へ電話が入るのでござる。
そこで露見して、叱られた。
――だが吾輩は、この叱り方が良いと思うた。
「何やってんだ!」でござる。
頭から否まれたのではない。
黙って動いたことを咎められたのじゃ。
これが、この御方と実家の関わりの始まりでござる。
【親への意地が、支えの半分であった】
さて、ここからが肝要でござる。
叱られた後、この御方はどうされたか。
――諦めなんだ。
そして、その理由をこう述べておられる。
「自分から何かやりたいと親に初めて言ったことが、役者でした。反対されても始めたことに対しての親への意地が、くじけそうになった時の支えの半分になっていました。もう半分は、役者になるんだという純粋な想いでしたね」
――「支えの半分」でござる。
半分が意地、半分が想い。
この分け方が、実に正直でござろう。
ふつう、こういう場では想いのほうだけを語るものじゃ。
だがこの御方は、意地を先に挙げておられる。
初めて、でござる。
それまで、この御方は親に何かをねだる子ではなかったのでござろう。
その最初の一つが、役者であった。
――だからこそ、引けなんだ。
では、その先はどうであったか。
「見事なまでに心が折れました(笑)。お芝居がまるでダメだったんです」
当時の担当の方が、稽古で戯曲を読むこの御方を見て、肩を落として部屋を出て行かれたという。
そして、こう告げられた。
「とても表には出せない。僕がOKを出すまではオーディションも受けさせない」
宣材の写真すら撮ってもらえなんだ。
――お主、これでも辞めなんだのでござる。
演出家の石丸さち子殿のもとで基礎を学び、舞台に立つようになって半年。
ようやく審査を受ける許しが出た。
デビューは2011年、24歳の折であった。
小学3年で志してから、十五年でござる。
――志した子が、そのまま大人になって叶えた形じゃ。
途中で諦める理由なら、いくらでもあったはずでござる。
宣材の写真すら撮ってもらえぬ日々が、その最たるものであろう。
――だが、辞めなんだ。
実家に下地が無かった分、時が掛かった。だが辞めなんだ。
【未来予想図-下地の無い者ほど遠くへ行ける】
吾輩がこの話で唸ったのは、「きっかけがはっきりとあったわけでもない」という一言でござる。
――普通、こういう時は何か作るものじゃ。
幼い日に観た芝居がどうの、親に連れられた小屋がどうの、とな。
だがこの御方は、無いと言い切っておられる。
――無いものを、無いと言える。
そこに、この御方の質が出ておると吾輩は見た。
そして2025年の取材では、24歳から25歳にかけての稽古の場での学びを、
いまだに役者としての一番の転機であったと述べておられる。
――デビューして間もない頃でござる。
つまりこの御方は、家から受け継いだものではなく、
後から自分で仕入れたもので立っておられる。
ここからは吾輩の見立てでござる。
下地の無い者ほど、遠くへ行けるとみる。
――受け継いだ型が無いゆえ、どの型にも入れるのじゃ。
『真犯人フラグ』の怪演も、『だから私は推しました』の演技賞も、
同じ御方が演じておられる。
この振り幅は、家の色が付いておらぬからこそ出せるものでござろう。
そして小学6年の折に独りで応募した子は、いまも変わっておらぬ。
――誰かに用意してもらうのではなく、自分で扉を叩く御方じゃ。
思えば、二度目の上京もそうであった。
一度うまくいかなんだ場所へ、もう一度出て行かれた。
――これも、誰かに背を押されての話ではござるまい。
小6で事務所に電話をかけた子が、そのまま大人になっておられる。
実家から受け継いだものが無いというのは、裏を返せば
――何を選んでも、誰にも遠慮が要らぬということでござる。
受け継ぐものが無い者は、代わりに選ぶ自由を持っておる。どの型にも染まれるのはそのゆえ
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【吾輩からの一言】
人前に立つ御方々を見て、生まれつきと思うてはならぬ。皆、手をかけておられるのでござる。
とはいえ、店に通う暇はなかなか取れぬもの。……家で使える器も出ておってな。
英国の美容機器の専門店でござる。まずは見てみられよ。
【実家は芝居と無縁!?小6で黙って受けた面接についてのまとめ】
今回は桜井ユキ殿について調査してみた!
一つ。桜井ユキ殿は「小学校の文集か何かに『将来は女優になる』と書いていました」と語られた。
二つ。実家については「親がたくさん映画を観る環境で育ったわけでもなくて、きっかけがはっきりとあったわけでもないんです」
三つ。「小学6年生の頃に地元の芸能事務所に応募して、親に黙って面接を受けに行きました」
四つ。露見した折は「すぐにバレて『何やってんだ!』と怒られました(笑)」であったという。
五つ。「反対されても始めたことに対しての親への意地が、くじけそうになった時の支えの半分になっていました」
吾輩は桜井ユキ殿に対して、自分で扉を叩く御方、と思ったんだがお主は桜井ユキ殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
引いた言葉の出どころ
anan(小6で親に黙って芸能事務所の面接を受け…桜井ユキ、夢を追って進み続けた軌跡・『anan』2023年4月19日号)
マイナビニュース(桜井ユキ「常に受け身でいたい」広がる役の幅に喜び
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