巷に騒がれる、岡田圭右殿:学び舎の祭で見出された話と一年の勤め人暮らしについて、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1968年11月17日、大阪市東区(今の中央区)のお生まれ
- 大阪の学び舎を経て、外国語の短期大学へ進む
- 卒業ののち、文具を作る店で一年ほど勤め人を務める
- 1993年1月、相方の説得に応じて二人組を結成する
- 翌月に世へ出て、以来ずっと笑いの道を歩んでおる
【学び舎の祭で見出された日】

巷では岡田圭右殿といえば「滑る御仁」として名が通っておる。だがな、お主。この御仁がどうやって笑いの道へ入ったか、その顛末をきちんと知っておる者は、そう多くないのではないか。これがまた、実に妙な話でな。吾輩は初めて聞いたとき、思わず膝を打ったものよ。
話は学び舎の頃に遡る。この御仁、大阪の学び舎を出たのち、外国語を学ぶ短期の大学へ進んだ。そこで出会うたのが、後に長きにわたって相方を務めることになる増田英彦殿じゃ。二人はそこで一度、笑いの真似事をしておる。だが、それきりであった。
ところがじゃ。増田殿が四回生になった年、学び舎の祭で二人組を復活させようという話が持ち上がった。ここが肝心なのだが、そのとき岡田殿は既にその学び舎の生徒ではなかったのじゃ。つまり、部外者である。にもかかわらず舞台に上がった。
そして、これが大当たりした。祭は二人の掛け合いで大いに沸き、その場に居合わせた芸能の会社の者に目を留められ、声を掛けられることとなったのじゃ。――お主、これを運と呼ぶか、実力と呼ぶか。吾輩は、両方だと思うておる。
在校生ですらない男が、祭に紛れ込んで舞台に立ち、その一度で見出される。こんな話、作り話ならば出来過ぎと笑われるところじゃ。だがこれは実際に起きたことでな。つまりこの御仁、呼ばれておらぬ場所で結果を出したわけじゃ。天晴れと申すほかあるまい。
この御仁の生い立ちについても、少し触れておこう。1968年、大阪は東区の生まれ。身の丈は百七十六寸ほど、血の型はO型と伝えられておる。少年の頃から白球を追いかけるのが何より好きで、その熱は今も冷めておらぬ。近畿の球団を熱心に応援し続け、かつてその球団におった名選手とも親しい間柄だという。
顔立ちについてもひと言。この御仁、実のところ整った顔立ちをしておってな、「見目のよい芸人」と呼ばれることもある。だが笑いの世界では、そう扱われることはまずない。もっぱら弄られる側に回っておる。――見目がよいのに弄られる。これもまた、この御仁の得な性分と言えような。
学び舎の道のりも、少し丁寧に追っておこう。大阪の小学校、中学校を経て、府立の高校へ。そこから外国語を学ぶ短期の大学へ進み、さらに語学の専門の学び舎まで出ておる。――笑いの道へ進む者としては、ずいぶんと堅実な歩みではないか。この堅実さが、後の一年の勤め人暮らしにもつながっておるのじゃ。
ここでひとつ、お主に問いたい。在校生でもない者が祭の舞台に立ち、その場で芸能の会社に見出される。そんな話、どれほどの確率で起きると思う。――万にひとつであろう。だがその万にひとつを引き当てるためには、まず舞台に上がっておらねばならぬ。この御仁は、上がった。それが全てじゃ。
ちなみにこの御仁、少年の頃は白球に夢中であった。笑いの道へ入るなど、当時は思うてもみなかったであろう。――人の道というものは、存外こうして横から差し込んでくるものよ。
この御仁の相方、増田英彦殿との縁もまた面白い。学び舎で出会い、一度組み、そして祭でもう一度組んだ。――人の縁というものは、こうして何度も差し戻されるものらしい。その二度目が、この御仁の生涯を決めたのじゃ。
【一年の勤め人暮らしを経て】

さて、ここで話が終われば「見出されて即座に世へ出た」という気持ちのよい成功譚になるのじゃが、現実はそう甘くない。声を掛けられてから実際に世へ出るまで、この御仁はさらに一年を要しておるのじゃ。
そしてその間、何をしておったか。なんと、文具を作る会社に勤めておったのじゃ。笑いの道に足を掛けかけた男が、朝に起き、背広を着て、勤め人として一年を過ごした。――この一年、どんな心地であったろうな。吾輩は想像するだけで胸が詰まる。
しかもこの御仁、ただの勤め人ではなかった。英語の検定は二級、秘書の心得まで修めておる。笑いの世界にはおよそ縁のなさそうな資格じゃが、きちんと積み上げておるあたり、根が生真面目な御仁であることが透けて見えよう。
そして1993年の正月、相方の説得に応じて、ついに腹を決めた。二人組を正式に結成し、養成の場へ入る。その翌月には、もう世へ出ておる。動き出してからの速さときたら、大したものじゃ。一年ためらった分を、一気に取り戻したかのようであった。
遠回りに見えるこの一年を、吾輩は無駄だとは思わぬ。むしろ、勤め人の暮らしを一度知っておるからこそ、この御仁の笑いには妙な安心感があるのではないか。見る側の暮らしを、身をもって知っておるのじゃからな。
ついでに申せば、この御仁は無類の車好きでもある。少年の頃から速く走る車に憧れ、初めての愛車も走りの車であった。阪神の高速がよく見える宿で働いておった折には、休みの時間になるとわざわざ高い所へ上がり、行き交う車を眺めておったという。――なんとも微笑ましい話ではないか。今も自ら変速機を操る車に乗っておるというから、筋金入りじゃ。
笑いの世界へ入った時期についても、少し補っておこう。1993年の結成というのは、上方の笑いの世界では激動の時期にあたる。同じ事務所には後に名を馳せる二人組がおり、よその養成所の同じ年の顔ぶれもまた、後に上方を背負って立つ者ばかりであった。その中で三十年以上も残り続けるというのは、並大抵のことではないぞ。
そもそも二人組を持ちかけたのは、相方の増田英彦殿の方であった。学び舎で出会い、祭で組み、そして数年を経て、もう一度誘われた。つまりこの御仁、二度にわたって相方に引き寄せられておるわけじゃ。――人に望まれて動く。己から強く押し出すのではなく、求められた場所で応える。この御仁の芸風そのものではないか。
一年の勤め人暮らしについて、吾輩がもうひとつ思うことがある。声を掛けられておきながら一年待たされたのじゃ。その間、心が折れてもおかしくなかった。だがこの御仁は折れず、背広を着ながら機を待ち続けた。――待てるというのも、立派な才よ。この一年がなければ、今日の岡田圭右殿はおらなんだであろう。
語学の検定に秘書の心得と申したが、これらは笑いの世界では何の役にも立たぬ。だが、役に立たぬと分かっておっても積み上げる。――その性分が、後に三十年の下支えとなったのではないかと吾輩は思うておる。
申し遅れたが、二人が世へ出たのは1993年の二月。結成からわずか一月での船出であった。普通ならば何年も稽古を積んでから出るものじゃ。それを一月でやってのけた。――祭の舞台で既に鍛えられておったのであろうな。遠回りに見えて、実は近道であった。
【未来予想図-滑ることすら芸に変える】

さてここからは、この御仁の芸そのものについて語ろう。「滑る」と言われて久しいが、その実、これほど計算され尽くした立ち位置もそうはないのじゃ。
二人組では突っ込みを担っておる。だが時折、己で笑いを取りにいって、見事に滑る。そして相方はそれを拾わず、放っておく。――この「放置」までが型なのじゃ。つまり、滑ることそのものが仕組みの一部として組み込まれておる。
本人もこれを芸だと言い切っておってな。相方の側も、わざと滑るような突っ込みをさせる場面を用意しておるという。二人で作った型なのじゃ。しかも掛け合いにおける突っ込みの腕前そのものは、玄人筋から極めて高いと評されておる。滑るのは芸、突っ込みは本物。恐ろしい二段構えじゃ。
面白いのは、その暮らしぶりよ。舞台では大声を張り上げ、大袈裟に動き回るこの御仁、普段はほとんど口を利かぬのだという。一人でおるのを好み、新幹線で黙って座っておる時が一番落ち着くと語っておる。共に仕事をした者たちからも「異様に静かだ」と言われる始末じゃ。――舞台の上と下で、これほど違う御仁も珍しい。
未来予想図を描くならば、この御仁はこれからも変わらず「滑り続ける」であろうと吾輩は見ておる。滑っても腹を立てぬ。声を荒らげぬ。そして忘れて、また同じことをする。この図太さこそが、三十年以上も第一線に居続けられた理由じゃ。学び舎の祭に紛れ込んだあの日から、この御仁は何ひとつ変わっておらぬのかもしれぬな。
この御仁の芸を語る上で外せぬのが、数々の決め台詞じゃ。「パァ」に始まり、「出たぁ」「閉店ガラガラ」と、どれも一度聞けば耳から離れぬ。しかも面白いのは、これらの中に母上が営んでおった駄菓子屋での口癖が混じっておることじゃ。暮らしの中の言葉を、そのまま芸に変える。――これぞ町の笑いの本流であろう。
さらに毎年、翌年の干支にちなんだ決め台詞を番組で披露するのが恒例となっておる。2007年から続けておるというから、驚きじゃ。毎年、滑ることを承知で新しい台詞を作り、堂々と披露し、そして滑る。――これを二十年近く続けられる胆力を、お主、どう見る。吾輩は素直に凄いと思う。
最後に、この御仁の器の大きさについて触れておきたい。心持ちが強く、温厚な性分であるがゆえ、声を荒らげたり怒鳴ったりすることがほとんどないという。笑いの世界は気の荒い者も多い場所じゃ。その中で三十年以上、荒れずに笑われ続ける道を選び取った。――滑るのが芸だと言い切れるのは、この器があってこそであろうな。
未来予想図として、吾輩はこう見ておる。この御仁はこれからも、誰かの隣で笑われ、弄られ、そして滑り続ける。それでよいのじゃ。尖った芸は流行り廃りがあるが、この御仁の芸には廃りがない。――町の笑いの匂いを残した最後の世代として、まだまだ長く茶の間に居続けてくれるはずじゃ。
この御仁は、滑ったことをその場で忘れる術を持っておる。自ら心を切り替え、なかったことにするのじゃ。そして忘れるゆえ、また同じことを繰り返し、相方に呆れられる。――なんとも見事な循環ではないか。この図太さこそ、この御仁最大の芸であろう。
この御仁は、干支にちなんだ決め台詞を毎年作り続けておる。子の年には鼠の真似を、丑の年には牛の真似を。そのほとんどが滑るというのだから、もはや芸というより行事じゃ。――こういう馬鹿馬鹿しさを大真面目に続けられる御仁を、吾輩はどうしても嫌いになれぬのじゃ。
【学び舎の祭で見出された!?一年の勤め人暮らしについてのまとめ】
今回は岡田圭右殿について調査してみた!
吾輩は岡田圭右殿に対して、学び舎の祭で見出され一年の勤め人を経て笑いの道を選んだ御仁、と思ったんだがお主は岡田圭右殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
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