巷に騒がれる、コロッケ殿:実入りの額と、糧を得る場所の移り変わりについて、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1960年3月13日、熊本県熊本市南区のお生まれ。本名は瀧川広志と申される
- 高校生の頃、地元熊本の店の舞台に潜り込んで立たせてもらう
- 高校を出てデザインの会社に勤められるが、夜は各所で似せ芸を続けられた
- 高校卒業の翌年、19の齢で会社を辞めて都へ出られる
- 池袋『青春の館』を皮切りに、都内の店を回られた
- 六本木『シュガーボーイ』にて、芸名「コロッケ」を付けてもらわれる
- 大塚『バックスバニー』へ移られ、そこで芸能の関係者に声を掛けられる
- 1980年、『お笑いスター誕生!!』に出られる
- 1987年、『ものまね王座決定戦』にて優勝される
- 2024年6月、東京・明治座『中村雅俊芸能生活50周年記念公演』に出られる
【コロッケの実入りの額は、公にされておらぬ】
「コロッケ殿の年収はいかほどか」と、よう引かれておる。
――まずは、そこに正面から答えておこう。
額は、どこにも出ておらぬ。
本人も、事務所も、金子の話を一度もしておられぬ。
――巷には推し量った数字が並んでおるようじゃが、
その出どころを辿ると、どれも根が無い。
ゆえに、この書記は数字を書かぬ。
根の無い数字を並べたところで、噂を一つ増やすだけでござる。
だが、である。
額は分からぬでも、糧を得てこられた場所なら辿れるのでござるよ。
しかもこの御方の場合、それが実に面白い。
この御仁は1960年3月13日、熊本県熊本市南区のお生まれ。
本名は瀧川広志と申される。
似せ芸を始めた訳が、また人間味に溢れておってな。
――ご本人が2021年の取材で、こう明かしておられる。
「単純に学校でモテたいということが理由で、有名人をそのままマネるものまねをはじめたのだけど、全然モテなくて……(苦笑)」
――モテぬかったのでござる。
そこで路線を変えられた。そのままではのうて、ふざけて笑わせる方へ。
いま世に知られるあの芸風は、モテなんだところから生まれておるのじゃ。
お主、ここが肝要でござってな。
正確に似せる芸が主流であった時代に、この御方は崩す方へ回られた。
――それが後に、糧の元になっていくのでござる。
では、その糧はどこで得ておられたのか。
そこを順に辿ってまいろう。
【糧を得る場所が、四度移っておる】
一つ目の場は、高校生の折の熊本の店でござった。
この御方は取材でこう述べておられる。
「高校生になると、地元の熊本のショーパブに潜り込んでステージに立たせてもらうようになり、高校を卒業してデザイン会社に就職してからも、夜はあちこちでものまねをやっていました」
――お読みになったか。
昼は会社、夜は舞台でござる。
しかも高校生の頃から、大人の店に潜り込んでおられる。
二つ目の場は、都の店でござった。
高校卒業の翌年、19の齢で会社を辞めて上京される。
その乗り込み方が、また凄まじい。
「都内のショーパブに、それこそ道場破りみたいなかたちでレコードを持って乗り込んでいきましたよ」
――道場破りでござるぞ。
紹介も、事務所の後ろ盾も無い。レコード一枚を抱えて、店の戸を叩かれたのじゃ。
最初に行かれたのが、池袋の『青春の館』という店であったという。
そして、どこへ行っても受けた。
「うちの店で働かない?」と誘われたそうでござる。
――ところが、この御方はそれを断っておられる。
目指しておったのは店の芸人ではのうて、あくまで表に出る者であったゆえじゃ。
「また寄らせてもらいます」とやんわり断り、選びの番組を狙って芸を磨かれた。
お主、ここが利口でござってな。
――目先の給金より、次の段を選んでおられる。
とはいえ、食わねばならぬ。結局は店で働くことになられた。
だが、その店の選び方がまた考えておってな。
「六本木の『シュガーボーイ』というお店で、コロッケという芸名もそこでつけてもらいました」
――ここは業界人や経済界の人が集まる店であった。
つまり、客の顔ぶれで店を選んでおられる。
ただし有名店ゆえ、なかなか主役では出られなんだ。
そこで、こう動かれる。
「自分をメインにしてくれると誘ってくれた大塚の『バックスバニー』というお店に移ることにしたのです」
――出番の大きさを取って、店を移られたわけじゃ。
そしてこの店で、芸能の関係者に声を掛けられる。
三つ目の場が、画面でござる。
1980年、『お笑いスター誕生!!』に出られた。
だが、この御方はそこで安心しておられぬ。
「1987年に多くのものまね芸人が出演ししのぎを削っていた『ものまね王座決定戦』で優勝させていただくまでは、勢いだけでテレビに出ているだけの存在だったはずです」
当時の心境も、こう明かしておられる。
「このままだと1、2年で消えてしまう芸人だな……」
――出番が縮んでいくのが分かったのじゃそうな。
初めはイントロから歌の途中までやらせてもらえたネタが、だんだん短くなる。
やがてイントロだけになり、しまいには舞台を通り過ぎるだけになったという。
そこでどうされたか。
「その頃、夜はショーパブに出ていたので、いろいろなことを毎晩のように試していました」
――画面で削られた分を、店で試しておられたのでござる。
二つの場を掛け持ちしたのではのうて、片方を、新しい芸を試す場に使うておられた。
四つ目の場が、舞台でござる。
2024年6月、東京・明治座の『中村雅俊芸能生活50周年記念公演』に出られた。
――店、画面、そして芝居の舞台へ。
六十を過ぎてなお、場を増やしておられるのじゃ。
【未来予想図-一生やっていくもの】
巷の問いに、答えを出しておこう。
――年収の額は、辿れなんだ。
本人も事務所も述べておられぬゆえ、書きようがござらぬ。
辿れたのは、糧を得る場所が四度移っておることでござる。
熊本の店、都の店、画面、そして舞台じゃ。
ここからは吾輩の見立てでござる。
この御方が四十年以上も一線に居られるのは、場を一つに絞らなんだゆえとみる。
画面で出番が縮んだ折、この御方は嘆いておられぬ。
――店へ戻って、毎晩試しておられる。
画面が減ったら店で作り、作ったものをまた画面へ持っていく。
そして2024年、この御方はこう述べておられる。
「ものまねは僕の中で一生やっていくもの。ものまねというジャンルをもっともっとエンターテイメントにしたい」
――一生、でござる。
四十年やってなお、これから広げると言うておられる。
もう一つ、同じ取材でこう漏らしておられてな。
「人の揚げ足を取って食べているので、ボランティアをしたり、警察のお手伝いをしたり、人の役に立つようなことをしていきたい」
――「食べている」と言い切っておられる。
己の糧が何から来ておるかを、はっきり分かっておられるのじゃ。
そして、それを引け目のように語りながら、返す方へ向かっておられる。
これから先も、この御方の場は増えてまいろう。
十九でレコードを抱えて店の戸を叩いた御方でござる。
――場が無ければ、また自分で叩きに行かれるだけじゃ。
場を一つに絞らなんだ者は、片方が細っても倒れぬ。行き来があるゆえでござる
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【吾輩からの一言】
人前に立つ御方々を見て、生まれつきと思うてはならぬ。皆、手をかけておられるのでござる。
とはいえ、店に通う暇はなかなか取れぬもの。……家で使える器も出ておってな。
英国の美容機器の専門店でござる。まずは見てみられよ。
【年収の噂!?レコード片手に道場破りについてのまとめ】
今回はコロッケ殿について調査してみた!
一つ。コロッケ殿の年収の額は、本人からも事務所からも出ておらぬ。ゆえに書かぬ。
二つ。始まりは熊本の店。「高校を卒業してデザイン会社に就職してからも、夜はあちこちでものまねをやっていました」と語られた。
三つ。19で上京し「道場破りみたいなかたちでレコードを持って乗り込んで」都の店を回られた。
四つ。1980年に『お笑いスター誕生!!』へ。だが「このままだと1、2年で消えてしまう芸人だな……」と案じておられたという。
五つ。2024年には明治座の舞台へ。「ものまねは僕の中で一生やっていくもの」と述べておられる。
吾輩はコロッケ殿に対して、場を一つに絞らなんだ御方、と思ったんだがお主はコロッケ殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
引いた言葉の出どころ
マイナビニュース(コロッケ、怒られてもやり続け…ものまねへの反応の変化に感慨「諦めてくれた(笑)」
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