巷に騒がれる、コロッケ殿:所ジョージ殿の一言で変わられた話と、ネタが五百人にも及ぶ話について、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1960年3月13日、熊本県熊本市南区のお生まれ
- 本名は瀧川広志と申される
- 熊本第一工業高等学校(現・開新高等学校)を卒業される
- 姉上の影響と、池畑慎之介殿の芸に憧れて似せ芸を始められる
- 1979年に都へ出られ、店の舞台で芸を披露しておられた
- そこで付いたあだ名から、「コロッケ」の芸名が生まれる
- 『お笑いスター誕生!!』で六週勝ち抜き、銀賞を得られる
- 1985年、『ものまね王座決定戦』で一躍名を上げられる
- 1989年頃より、美川憲一殿の似せ芸で注目を浴びられる
- 2005年、映画『イントゥ・ザ・サン』で海の向こうの作に出られる
- 2014年、文化庁長官表彰を受けられる
- 似せ芸の持ち札は、およそ五百人分に及ぶという
【芸名は「小ロッキー」から】

巷でコロッケ殿と申せば、似せ芸の名手として知らぬ者はおるまい。
1960年3月13日、熊本県熊本市南区のお生まれ。
本名は瀧川広志と申される。
まず、この御仁が似せ芸を始めた切っ掛けから語ろうぞ。
一つは、姉上の影響であったという。
――姉上も、この道で活動しておられるそうじゃ。
そしてもう一つが、池畑慎之介殿の芸でござる。
画面でその芸を見て、心を奪われた。
――この御仁とは、いまも親交が深いという。
そして熊本の素人の頃から、既に評判であった。
――盛り場から「瀧ちゃんよか!」と声が飛んだそうじゃ。
お主、素人でこれでござるぞ。
そして1979年、都へ出られる。
店の舞台で、芸を披露する日々でござった。
さて、ここで芸名の謂れが生まれる。
その店の主が、
――「ロッキー」というあだ名の御仁であった。
そしてこの御仁の髪型が、その主とそっくりであった。
そこで付いたあだ名が――
――「小ロッキー」でござる。
そしてそれが縮まって、
――「コロッケ」となったのじゃ。
お主、笑うたか。
食べ物の名かと思うておった者も多かろう。
――元は、髪型から来た名でござった。
お主、素人の頃から評判というのは
――なかなか無いことでござるぞ。
熊本の盛り場から声が飛んだという。
つまり、地元では既に知られておられた。
――才は、初めからあったのでござる。
そして最初は、店の舞台が場であった。
大きな舞台ではござらぬ。
客も、少なかったであろう。
――だがそこで、腕を磨かれたのじゃ。
そして『お笑いスター誕生!!』に出られる。
金色の袴に、女物の長靴。
巻いた長髪に、化粧まで施して。
――なかなかの出で立ちでござるな。
そして六週も勝ち抜き、銀の賞を得られた。
だがこの出で立ちゆえ、
――楽屋では、周りが寄りつかなんだという。
お主、これは寂しい話でござる。
この御仁の周りだけ、人がおらぬのじゃ。
――さぞ、心細かったであろう。
だがこの御仁は、その姿を変えなかった。
――己の芸を、貫かれたのでござる。
【所ジョージ殿の痛烈な一言】

さて、この御仁の転機を語ろうぞ。
――吾輩、この話が大好きでござる。
まだ熊本におられた頃のこと。
知人の伝手で一度、都へ上られた。
そしてある放送の場で、芸を披露する機を得られる。
その場に居合わせたのが、
――タモリ殿、赤塚不二夫殿、所ジョージ殿でござった。
お主、この顔ぶれでござるぞ。
――いま思えば、恐ろしい場でござるな。
そして芸を披露した後、
所ジョージ殿から一言、こう言われた。
――「君のものまねは似ているけど、面白くない」。
お主、これは堪えたであろう。
似ておるのは、褒め言葉のはずでござる。
だがそれでは足りぬ、と言われたのじゃ。
――痛烈な一言でござる。
普通ならば、ここで折れる。
だがこの御仁は、熊本へ戻って一念発起された。
そして生み出されたのが――
――「ビジュアルものまね」でござる。
似せるだけではない。
その者の中で、己が特徴と思い込んだ一部を
――極端に誇張して見せるのじゃ。
誇張のあまり、本人とは別物になることも多い。
――だが、それが可笑しいのでござる。
そしてこの芸を作るため、
半分にした割り箸を口に入れ、
――顔を矯正する稽古まで積まれたという。
お主、恐ろしい稽古でござるな。
だがそれが後に「顔面ブレイクダンス」となった。
――あの一言が無ければ、この芸は無かったのでござる。
さて、あの一言について
もう少し考えてみようではないか。
「似ているけど、面白くない」。
お主、これは残酷な言葉でござる。
――努力の方向が違う、と言われたに等しい。
似せるために、どれほど稽古を積んだか。
その全てを、否まれたようなものじゃ。
――並の者なら、恨むところでござろう。
だがこの御仁は、そう取られなかった。
熊本へ戻り、一から考え直された。
そして辿り着いたのが、誇張という手でござる。
――似せるのではなく、面白くする。
ここに、この御仁の芸の根がござる。
お主も覚えておかれよ。
厳しい言葉をくれる者は、
――実は、有り難い御仁なのでござる。
褒める者は、いくらでもおる。
だが痛いところを突いてくれる者は、少ない。
――それを恨むか、糧にするかで道が分かれるのじゃ。
そして割り箸を口に入れる稽古でござる。
――よくぞ、思いつかれたものよ。
顔を作り変えるための稽古じゃ。
これが後に、
――「顔面ブレイクダンス」となったのでござる。
誰も思いつかぬことを、黙って続ける。
――そこに、この御仁の凄みがござる。
【未来予想図-ネタは五百人】

さて、この御仁の懐の深さを語ろうぞ。
1985年、『ものまね王座決定戦』で一躍名を上げられる。
そして四天王の一人と呼ばれるまでになられた。
だが1992年、その番組を離れられる。
その理由を、この御仁はこう語っておられる。
「一人に与えられる時は、わずか一分半。
己の踊りを入れた芸は、四分も五分もかかる。
――どうやっても、収まらぬ」と。
そして、こうも仰る。
「このままぬるま湯につかっておれば、
――冷めるしかない。
――己で湯を沸かせる場所を探すべきではないか」と。
お主、これは重い言葉でござるぞ。
――安泰を捨てられたのじゃ。
そして仕事が無くなった時、
声を掛けてくれた御仁がおられた。
――志村けん殿でござる。
その番組に出たおかげで、
――少しずつ仕事が戻ってきたと語っておられる。
そしてこの御仁には、もう一つ美しい話がござる。
美川憲一殿の似せ芸でござる。
これ、実は美川殿ご本人から
――「持ち札に入れてほしい」と頼まれたのが始まりじゃ。
当時、美川殿は表舞台から遠のいておられた。
そこへこの御仁の芸が当たり、
――美川殿の人気が復活したのでござる。
そして美川殿は、この御仁を
――「芸能界に帰してくれた恩人」と仰っておるという。
さらに、こんな話もござる。
この御仁の舞台の衣装が粗末であったのを見て、
美川殿が己の衣装を贈られたそうじゃ。
――なんとも、良い話ではないか。
そして持ち札は、いまや五百人分。
――ほぼ全て、本人の許しは取っておられぬという。
先に許しを求めると、断られることがあるゆえだそうじゃ。
――なんとも、正直な言い分でござるな。
最後に、吾輩の思うところを述べさせてもらおう。
五百人分の持ち札でござる。
お主、五百でござるぞ。
――一人覚えるのに、どれほどかかるか。
声、顔つき、癖、動き。
その全てを写し取らねばならぬ。
――それを、五百人分じゃ。
そしてこの御仁は、いまも増やしておられる。
六十を過ぎてなお、でござる。
――止まっておられぬのじゃ。
そして芸だけでなく、商いにも手を広げておられる。
己の名を冠した揚げ物の店を出され、
2023年6月には、
――郷里の食材を使う料理の店まで開かれた。
――郷里への情が、深いのでござろう。
熊本の市電の車内の報せを
似せ芸で務められたこともあるという。
――これは、乗ってみたくなるのう。
そして2014年には、
文化を担う役所から表彰も受けておられる。
――芸が、認められたということじゃ。
この先この御仁がどこへ進まれるか、吾輩には分からぬ。
だが痛烈な一言から始まった芸が、
――五百人分にまで育ったのでござる。
お主も、この御仁の芸を一度見てみられよ。
そして最後に、もう一言だけ添えておこう。
この御仁の芸は、似せるだけではござらぬ。
――笑わせることが、目当てなのじゃ。
似ておるだけでは、感心されて終わる。
だが可笑しければ、人は覚える。
――あの一言が、それを教えたのでござる。
そして誇張のあまり、
本人とは全くの別物になることも多い。
なぜそうなったか、
――己でも説明できぬと仰るそうじゃ。
お主、笑うたか。
――そこまで行けば、もはや芸術でござるよ。
そして持ち札を五百まで増やしながら、
――いまも新しい者を加え続けておられる。
――好奇の心が、涸れておらぬのでござる。
吾輩、この御仁を大いに買っておるぞ。
【所ジョージ殿の一言!?ネタは五百人についてのまとめ】
今回はコロッケ殿について調査してみた!
吾輩はコロッケ殿に対して、痛烈な一言から芸を作り変え、五百人もの持ち札を築き上げられたと思ったんだがお主はコロッケ殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
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