巷に騒がれる、ハリウッドザコシショウ殿:年収のうわさと本人が語った月収、二十四年の下積みを経て頂に立った歩みについて、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 生年月日:1974年2月13日
- 出身地:静岡県清水市(現静岡市清水区)
- 旧芸名:ザコシショウ
- 芸人を目指すきっかけ:母親との会話、ビートたけしの影響
- 大阪NSC11期生として入学。同期には陣内智則、中川家、ケンドーコバヤシ、たむらけんじらがいる。
- コンビ「G★MENS」としてデビュー(相方:静岡茶っぱ)
- 1999年、吉本を辞め、活動拠点を東京に移動
- 2002年、ピン芸人としての活動をスタート。芸名を「ハリウッドザコシショウ」に改名
- 『あらびき団』にて「キング・オブ・あらびき」と称される
- 2016年、R-1ぐらんぷりで優勝
- 2021年、リニューアルされた「R-1グランプリ」で審査員を務める
【月収5万円の頃があった】
吾輩が今宵語るは、ハリウッドザコシショウ殿の来し方でござる。
巷では稼ぎについて様々に語られておるが、本人が口にした数字もござってな。
――『あらびき団』に出ておった頃は、アルバイトを辞めねばならず、月収は5万円まで下がったという。
「本当に無名のころよりも『あらびき団』(TBS系)に出ていた時期のほうが貧乏でした」と振り返っておられる。
――そしてR-1で頂に立つと、「R-1優勝した月は9万(円)ぐらいですね。その次が一気に何百万やった」
「R-1の翌月に振り込まれた給料で借金をすべて返済しました」とも語っておられるのじゃ。
――では、そこへ辿り着くまでの道を見てまいろうぞ。
本名は中澤滋紀殿。1974年2月13日、静岡県清水の生まれでござる。
幼き日は「根暗根暗の大根暗」と自ら申されるほどの性分で、いじめられておられたという。
すると母上が、いじめておる子の家を一軒ずつ訪ね、頭を下げて回られたそうな。
そしてある日、共に笑いの番組を観ておった母上がこう言われた。
「この人たちは、面白いというだけでみんなに尊敬されてるんだよ」
この一言が、笑いの道を志す切っ掛けの一つになったのだそうな。
――小学三年の頃から、先生の物真似で同級生を笑わせるようになられた。
1992年、高校の同級生と共に大阪の養成所へ11期生として入られる。同期には陣内智則殿、中川家、ケンドーコバヤシ殿、たむらけんじ殿がおられた。
翌1993年に「G★MENS」というグループを作って世に出られる。
――ところが芸名の「ザコシショウ」は、もとは相方の高校時代のあだ名であった。
相方が使うことを拒んだゆえ、自分が名乗ることにされたのじゃ。
ゆえに本人は「僕は2代目ザコシショウなんです」と言うておられる。
――人のあだ名を継いだ芸人など、他におるまいて。
この一件だけでも、この御方の質が見えてこよう。
――相方が要らぬと言うたものを、拾って自分の名にされたのじゃ。
捨てられたものを拾い、使えるようにする。後の歩みも、ずっとこの調子でござった。
――そのあたりを、次に見てまいろうぞ。
【では、どうやってここまで来られたのか】
さて、数えるべきは道のりでござる。
――この御方の場合、これがまた長いのでな。
そもそも二人の芸風が独特になったのには訳がある。
静岡の訛りが強く、大阪では突っ込みの台詞に訛りがあると笑いが取れなんだ。それゆえ二人ともわめき散らす形になったというのじゃ。
――弱みを、そのまま芸風に変えられたわけでござる。
1999年、小屋の入れ替わりの折に人気の序列が最下位であったため、外される3グループに入ってしまわれる。
仕事は激減し、事務所を辞めて東京へ移られた。
――だが東京へ出ても仕事は皆無に等しく、知られることもなかった。
東京で入った事務所では、一年八か月で「芸風を変えろ」と言われ、それに逆らって出られた。そこから三年ほど、何もせずにおられたという。
その間、漫画家を志して出版社へ持ち込まれたこともある。
四コマを十六本描いて持って行かれたが、ある編集部では「これ全部つまらないねぇ」と言われたそうな。
――漫画で駄目、芸でも売れぬ。
それでも、お笑いしか無いと思い定められた。
――売れるまでの稼ぎは、水道の検針や品出しといった日雇いであった。
2002年には相方が芸人を辞め、一人になられる。
そこで芸名を改め、いまの「ハリウッドザコシショウ」となった。海の向こうのプロレスラー、ハルク・ホーガンが名乗った「ハリウッド・ハルク・ホーガン」にちなんだものじゃ。
漫画に挫けてお笑いへ戻られた折のことを、「お笑いをもう一度イチから真面目に勉強するようになってから、人生が変わりました」と語っておられる。
――三十を過ぎて、一からやり直されたのでござるよ。
そして2016年3月6日。R-1ぐらんぷりの決勝で、名だたる面々を圧倒的な票差で退けて優勝された。
――42歳での頂であった。
四十二でござるぞ。世に出るのが早い者ばかりが目につく世じゃが、二十四年かけて頂に立った者もおるのじゃ。
2021年からは、その大会で審査を務めるまでになっておられる。
――二十年以上の下積みが、しかと実を結んだのでござる。
では、いま何をして糧を得ておられるのか。公になっておるものを並べるとこうなる。
――番組への出演、広告、動く画の場、笑いの興行、そして声の仕事。
一つの看板に寄りかかっておらぬ。
――R-1の後の稼ぎも、「してる、してる」と続いておることを明言しておられる。
ここで一つ、考えてみたいことがある。
――なぜ、この御方の稼ぎが巷で語られるようになったのか。
売れておらぬ頃には、誰も稼ぎの話などせなんだ。水道の検針をしておった頃に、億の話をした者はおるまい。
――つまり、額の噂そのものが売れた証なのでござる。
ならば数えるべきは額ではなく、そこへ辿り着くまでに何を捨て、何を続けられたかでござろう。
――捨てたのは、漫画家の道と、言われた通りに芸風を変えることじゃ。
続けられたのは、笑いだけであった。
――三年何もせずにおっても、そこだけは離されなんだのでござるよ。
四十二で頂に立つというのは、その間ずっと辞めずにおったということでござる。
――吾輩が唸ったのは、額ではのうてそちらでござった。
【未来予想図-テンガロンハットと小道具】
この御方について、細かいが面白い話がござってな。
――テンガロンハットは、この御方の目印でござる。
さらに、学生の頃は数学が得意であったという。
そして小道具作りが得意なのも、そのためではないかと自ら語っておられる。
――あの妙な小道具は、算術の頭から出ておるらしいのでござるよ。
吾輩は、ここに得心した。
――わめき散らすだけの御方ではないということじゃ。
訛りが邪魔になれば、それを芸風に変える。算術の頭があれば、それを小道具に使う。
――手元にあるものを、全部芸に回しておられるのでござる。
これから先、どれだけ稼がれるか——それは吾輩には分からぬ。
――だが、まだ何かを作り足されるであろうことは分かる。
二十四年かけて頂に立ち、その後は審査の側に回られた御方でござる。
――止まる質ではござらぬ。
審査の側に回るというのは、後に続く者を見る役目でござる。かつて最下位で外された御方が、いま選ぶ側に座っておられるのじゃ。
――これほど出来のよい話も、なかなかござるまい。
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【吾輩からの一言】
人前に立つ御方々を見て、生まれつきと思うてはならぬ。皆、手をかけておられるのでござる。
とはいえ、店に通う暇はなかなか取れぬもの。……家で使える器も出ておってな。
英国の美容機器の専門店でござる。まずは見てみられよ。
【年収の噂!?42歳で頂に立った男についてのまとめ】
今回はハリウッドザコシショウ殿について調査してみた!
吾輩はハリウッドザコシショウ殿に対して、二十四年かけて頂に立たれた、諦めの悪い御方、と思ったんだがお主はハリウッドザコシショウ殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
引いた言葉の出どころ
女子SPA!(2025年1月12日)漫画の持ち込みに挫け「お笑いをもう一度イチから真面目に勉強」
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