巷に騒がれる、ダルビッシュ有殿:甲子園の無安打無得点から、日米通算200勝までの歩みについてについて、
さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!
【略歴】
- 1986年8月16日、大阪府羽曳野市のお生まれ
- 右で投げ、右で打つ投げ手でござる
- 高等の学び舎は宮城にあり、甲子園へ四季続けて出ておられる
- 三年の春、大会史上十二度目となる無安打無得点を成し遂げられた
- 2004年の選びにて、四つの組が名乗る中、北の組へ入られる
- 日ノ本の組では、五年続けて防御率一点台を記録された
- 2007年、沢村の賞と最優秀選手に選ばれておる
- 2012年、亜米利加へ渡られた
- 一年目に十六勝、日ノ本の新人として史上最多でござる
- 亜細亜の者として二人目、日ノ本の者として初の最多勝を得られた
- 2024年5月、日米通算200勝に到達された
- 到達した二十七人のうち、全て先発での到達は史上初でござる
【甲子園で、怪我と戦いながら】
吾輩が今宵語るは、ダルビッシュ有殿の歩みでござる。
――日ノ本と亜米利加を跨いで、二百の勝ちを積まれた投げ手じゃ。
生まれは1986年8月16日、大阪の羽曳野でござる。
――右で投げ、右で打つ投げ手でござってな。
高等の学び舎は、宮城にござった。
――なお、学び舎の名はここでは書か申さぬ。
大事なのは、そこで何を成されたかでござるからな。
――甲子園へ、四季続けて出ておられるのでござる。
二年の春、夏。三年の春、夏。
――四度でござるよ。これだけでも並ではござらぬのじゃ。
だが、その道のりは平らではござらなんだ。
――怪我との戦いが、ずっと続いておったのでござる。
二年の春は、開会の式の後に右の肩を痛められてな。
――それでも初戦は、投げ切って勝たれたのじゃ。
二年の夏は、初戦で腰を痛めて二回で降りられた。
――だが組は決勝まで進み、次点となっておる。
そしてこの大会の後、組の頭に就かれてな。
――頭として臨んだ秋の大会では、二度続けての優勝でござる。
そして三年の春、大きな記録が生まれるのでござる。
――初戦にて、無安打無得点を成し遂げられたのじゃ。
大会の史上、十二度目でござった。
――しかも、十年ぶりの出来事でござる。
お主、これがどれほどのことか分かるかな。
――九つの回を、一本も打たれず点も許さぬのでござるよ。
だが、その直後にまた肩を痛められてな。
――次の戦いには登れず、組は敗れたのでござる。
最後の夏は、県の決勝を二十対一で制して出場を決められた。
――甲子園では、初戦から二つ続けて完封しておられる。
三度目の戦いでも、八回まで点を許さなんだ。
――だがその大会の二十七回目に、初めて点を許されたのじゃ。
そして延長の末に敗れ、己が最後の打ち手となられた。
――お主、これほど惜しい終わり方もござるまい。
二十七回、点を許さなんだ末の一点でござるからな。
――さて、そこから海の外へ出るまでの話に移ろうぞ。
【日ノ本で7年、そして海を渡られた】
2004年の選びにて、四つの組が名乗りを上げられた。
――そして北の組が、一番で指名されたのでござる。
そこからの七年が、まさに階段でござってな。
――五年続けて、防御率が一点台でござった。
お主、防御率一点台が何を意味するか分かるかな。
――九つの回を投げて、己の責めが二点に満たぬということでござる。
これを一年やるだけでも、大変なことでござってな。
――それを五年、続けられたのでござるよ。
2007年には、沢村の賞に選ばれておられる。
――奪三振の最多、守りの賞、最良の九人にも選ばれてな。
同じ年、組の連覇に大きく貢献し、最優秀選手にも選ばれておる。
――二十一の齢での最優秀選手でござるよ。
これは、史上三番目に若い記録でござってな。
――そして日ノ本の頂を決める戦いでも、力を見せられた。
初戦で完投して勝ち、十三の三振を奪っておられる。
――五戦目も七回を一点に抑え、十一の三振を奪われた。
だが味方の打ち手が抑え込まれ、敗れの投げ手となられてな。
――その内容が評され、敢闘の賞を受けておられるのじゃ。
負けてなお賞を得る。それほど中身が良かったということでござるよ。
――日ノ本での成績は、九十三勝でござった。
そして2012年、亜米利加へ渡られたのでござる。
――一年目から、十六の勝ちを挙げられてな。
これは、日ノ本から渡った新人として史上最多でござる。
――同じ年、二百二十一の三振も奪っておられるのじゃ。
だが、その年の後半に制球を崩された時期がござってな。
――一つの回で六点を許すという、己の最悪も味わっておられる。
さて、ここからが今宵いちばん語りたい所でござる。
――そこからの立て直し方が、この御方らしいのでござるよ。
組の者から教えを受け、他の投げ手の型を参考にされてな。
――投げる型そのものを、作り直されたのでござる。
その結果、次の七つの戦いで四球の割合が大きく改まったのじゃ。
――崩れたら作り直す。この構えが、数に表れておるのでござる。
お主、ここに唸らぬかな。
――既に十六勝しておる者が、型を捨てて作り直すのでござるよ。
【未来予想図-崩れたら、作り直せばよい】
そこから先も、この御方の歩みは止まら申さぬ。
――幾つもの組を渡り、地区の優勝にも幾度も貢献しておられる。
亜細亜の者として二人目、日ノ本の者として初の最多勝も得られた。
――さらに、奪三振の最多も日ノ本の者として二人目でござる。
そして2024年5月、大きな節目に到達されてな。
――日米を跨いでの、通算二百勝でござる。
内訳は、海の外で百七勝、日ノ本で九十三勝でござった。
――二百でござるよ。容易に届く数ではござらぬのじゃ。
さらに特筆すべきは、その中身でござってな。
――二百に届いた二十七人のうち、全て先発での到達は史上初じゃ。
お主、この意味が分かるかな。
――救いの働きでの勝ちが、一つも無いということでござる。
先発とは、初めから投げて相手を抑える働きでござってな。
――五回を投げ切らねば、勝ちは付か申さぬのでござる。
それを二百回、積み上げられたということでござるよ。
――そしてもう一つ、驚くべきは年月の長さでござってな。
十八でこの道に入り、三十代の後半まで第一線で投げ続けておられる。
――投げ手にとって、これは並大抵のことではござらぬのじゃ。
肩や肘に、大きな負担がかかる働きでござるからな。
――多くの投げ手が、二十代のうちに故障で姿を消すのでござる。
では、なぜこの御方は長く投げ続けられたのか。
――体の手入れと、技を新しくし続けることでござろう。
同じ型のまま歳を重ねれば、必ず通じなくなるのでござる。
――だがこの御方は、崩れるたびに作り直してこられたのじゃ。
近ごろは、動画の場でも若い者へ発しておられてな。
――己の技を、惜しみなく明かしておられるのでござる。
これも、大した構えでござってな。
――技を隠す者が多い中で、開いておられるのでござるからな。
さて、この御方から汲めるものを並べておこうぞ。
――一つ、崩れたら作り直すことでござる。
うまく行っておる時ほど、型を捨てるのは怖いのでござるからな。
――二つ、同じ型のまま歳を重ねぬことでござるな。
技を新しくし続けた者だけが、長く立てるのでござるよ。
――三つ、負けても中身を見ることでござる。
負けてなお賞を得られた、あの戦いのようにでござるからな。
――そして今ひとつ、己の技を惜しまず開くことじゃ。
隠す者より、開く者のもとに人は集まるのでござるよ。
――千里の道も一歩から。崩れたら、また作り直せばよいのでござる。
【日米通算200勝!?全て先発で到達についてのまとめ】
今回はダルビッシュ有殿について調査してみた!
高等の学び舎では四季続けて甲子園へ出て、無安打無得点も成された。
日ノ本の組では、五年続けて防御率一点台という記録を残された。
2024年5月、日米通算200勝に到達。全て先発での到達は史上初でござる。
崩れたら作り直す――この構えが、長く投げ続けた理由でござろう。
吾輩はダルビッシュ有殿に対して、崩れたら作り直す、を続けてこられた御方でござる、と思ったんだがお主はダルビッシュ有殿についてどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
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