巷に騒がれる、箱根駅伝:四つの学び舎で始まった一回目と、217.1キロという道の中身について、
さても気になる話じゃ!今宵はこの催しを追ってみようぞ!
【略歴】
- 正しき名は「東京箱根間往復大学駅伝競走」
- 1920年(大正9年)2月14日、第一回が催される
- 始まりは4校のみ。名も「四大校駅伝競走」であった
- 早稲田・慶應・明治・東京高師の四校が走った
- 催すは関東学生陸上競技連盟と読売新聞社
- 戦により1941・1942・1944・1945・1946年は止まっておる
- 1947年に戻り、以後は続いておる
- 往路は5区間107.5キロ、復路は5区間109.6キロ
- 合わせて10区間217.1キロ
- 出るは21組。前の年の上位10校、予選を通った10校、そして連合の1組
- 予選は10月。半分の丸走りの道で、各校上位10人の合計で決まる
- 2区は「花の2区」と呼ばれ、平地では最も長い
- 5区は標高差およそ834メートルを一気に駆け上がる
- 6区はその山を一気に下る
- 1987年から生の中継が始まっておる
- 2019年の復路は視聴率32.1%、その瞬間はおよそ38%近くに達した
【始まりは、たった4校であった】
「箱根駅伝はいつ始まったのか」——これを調べに来られた御方へ。
答えは1920年(大正9年)2月14日でござる。
――だが、始まりの姿は今とまるで違うておった。
出た学び舎は、わずかに四つ。早稲田、慶應、明治、そして東京高師でござる。
――名も「四大校駅伝競走」であった。
いまの正しき名は「東京箱根間往復大学駅伝競走」じゃ。四校で始まったものが、いまは21の組が争う催しになっておる。
吾輩はこの数の差に唸った。
――四つが二十一。百年でこれだけ増えたのでござる。
催しておるのは、関東学生陸上競技連盟と読売新聞社。学び舎の連盟と、報せを届ける者が組んで続けてきたわけじゃな。
【戦で五度止まり、1947年に戻った】
百年続いた催しと申しても、途切れなんだわけではござらぬ。
――戦により、五度も止まっておるのじゃ。
止まったのは1941年、1942年、1944年、1945年、1946年。
――お気づきであろうか。1943年が抜けておる。
そう、戦の只中に一度だけ催されておるのでござる。
そして1947年、戻った。以後は今日まで続いておる。
吾輩がここで思うのは、戻したという一事でござる。
――止めるのは易い。戻すのは難しい。
五年も途切れたものを、また並べ直した者たちがおったのじゃ。走る者も、道を整える者も、報せる者も、一から集め直さねばならぬ。
――いま正月に映るあの列は、その上に載っておるのでござるよ。
【217.1キロという数字の中身】
次に、道の長さを申しておこう。
――往路は5区間で107.5キロ、復路は5区間で109.6キロ。
合わせて10区間217.1キロでござる。
面白いのは、往きと帰りで長さが違うところじゃ。
――同じ道を戻るのに、2.1キロも違うのでござる。
つまり、往きと帰りで通る道がぴたりと同じではないということじゃな。
そして一区間あたりの長さを割り出せば、およそ21キロ。
――一人が、半分の丸走りに近い道を任されるわけでござる。
これを十人で継ぐ。誰か一人が崩れれば、そこまでの九人の働きが薄れてしまう。
――継ぐという形が、これほど酷なものはござるまい。
出る組の数は21。前の年に上位であった10校、予選を通った10校、そして連合の1組でござる。
――予選から上がってくる者が半分もおるのじゃ。
毎年、顔ぶれが入れ替わる余地がある。そこがこの催しの面白いところでござろう。
【花の2区と、834メートルの山】
十の区間には、それぞれ顔がござってな。
――とりわけ名の知れておるのが、2区と5区でござる。
2区は「花の2区」と呼ばれておる。平らな道の中では最も長い区間じゃ。
――各校が最も強い者を置く区間だと言われておる。
そして5区。ここが桁違いでござる。
――標高差およそ834メートルを、一気に駆け上がるのじゃ。
834メートルでござるぞ。走って登る高さではあるまいて。
続く6区は、その山を今度は一気に下る。
――登りと下りで、まるで別の技が要るわけでござる。
吾輩はここに、この催しの妙を見た。
――速い者を十人並べれば勝てる、という話ではないのじゃ。
平らな道を長く押せる者、山を登れる者、山を下れる者。それぞれ違う質の者を、十人揃えねばならぬ。
――だから毎年、顔ぶれの順が入れ替わるのでござろうな。
【正月の顔になったのは1987年からであった】
いま正月といえばこの催し、という御方も多かろう。
――だが、生の中継が始まったのは1987年でござる。
第一回から数えれば、六十七年も経ってからじゃ。
――それまでは、走っておっても映っておらなんだのでござる。
そして映るようになってから、数字が伸びた。
2019年の復路は視聴率32.1%。その瞬間は、およそ38%近くに達したという。
――三人に一人が観ておったということでござる。
吾輩が思うのは、この順序でござる。
――人気が出たから映したのではない。映したから人気が出たのじゃ。
六十七年、映らぬまま続けた者たちがおった。その積み重ねの上に、中継が乗ったわけでござる。
――先に続けておらねば、映すものが無かったのでござるよ。
【この書記の御方にも、陸上の縁がある】
さて、ここからが吾輩の本題でござる。
――この書記が追っておる御方の中にも、この道に縁のある者がおられる。
一人は、なにわ男子の西畑大吾殿じゃ。
2025年、この御方は「第5回全国大学対校男女混合駅伝」の大会の顔役に就かれた。
――箱根駅伝ではござらぬ。そこは間違えぬように書いておく。
だが、この折に語られた言葉が良いのでござる。
「普段から『箱根駅伝』や『大阪国際女子マラソン』といった中継や、陸上の世界大会は欠かさず見ている」
――欠かさず、でござる。
そして初めての中継の仕事について、こうも述べておられる。
「“初めて”が僕にとってなじみの深い“陸上”なのはすごくうれしいです」
なぜ陸上がなじみ深いのか。その訳が可笑しい。
――「中学校では野球部に入るつもりでした」。
ところが、こう続くのじゃ。
「丸刈りにしないといけなくて、それが嫌で、足が速いという理由だけで陸上部に入りました」
――髪を惜しんで陸上部に入られたのでござるよ。
その十数年後、駅伝の催しの顔役に選ばれる。報せを受けては「まさか僕にオファーをいただけると思っていなかったので、本当にびっくりしています」と。
――丸刈りが嫌だという一事から、ここまで繋がるのじゃ。
もう一人挙げておこう。timeleszの佐藤勝利殿でござる。
この御方は学び舎で陸上の部の部長を務めておられた。10キロを42分で走られたという話も残っておる。
――いずれも、走ることから始まった御方でござるよ。
【4校で始まった成り立ちについてのまとめ】
今回は箱根駅伝について調査してみた!
箱根駅伝の正しき名は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。1920年2月14日に、わずか四つの学び舎で始まっておる。その頃の名は「四大校駅伝競走」であった。
催しておるのは関東学生陸上競技連盟と読売新聞社。学び舎の連盟と、報せを届ける者が組んで百年続けてきたわけじゃ。
戦により五度も止まっておる(1941・1942・1944・1945・1946年)。1943年だけは戦の只中に催され、そして1947年に戻った。止めるのは易い。戻すのは難しいのでござるよ。
道の長さは往路5区間107.5キロ、復路5区間109.6キロ、合わせて217.1キロ。一区間およそ21キロを、十人で継ぐ。出る組は21でござる。
十の区間には顔がある。2区は「花の2区」で平地の最長、5区は標高差およそ834メートルを駆け上がる山登り、6区はその山を下る。速い者を十人並べれば勝てる、という話ではないのじゃ。
そして生の中継が始まったのは1987年。第一回から六十七年後でござる。2019年の復路は視聴率32.1%。人気が出たから映したのではない。映したから人気が出た——順序はこちらじゃ。
そして、この書記が追っておる御方にも縁がある。西畑大吾殿は「箱根駅伝の中継を欠かさず見ている」と語っておられ、陸上部に入った訳は「丸刈りにしないといけなくて、それが嫌で」であった。佐藤勝利殿は陸上の部の部長を務めておられる。
吾輩は箱根駅伝に対して、四つの学び舎から始まり、五度止まってなお戻ってきた催し、と思ったんだがお主はどう思ったかな?
世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。
引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!
それではまた次の記事にて会おう!
嘘か誠かの判断は自己責任にて!
出典
箱根駅伝 公式 https://www.hakone-ekiden.jp/about/
モデルプレス https://mdpr.jp/news/detail/4493859
めざましmedia https://mezamashi.media/articles/-/82014
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