【柏木由紀】母と2人で上京!?4年帰らなかった鹿児島

柏木由紀 怒羅悶倶楽部

巷に騒がれる、柏木由紀殿:母と二人で上京!?4年帰らなかった鹿児島について、

さても気になる話じゃ!今宵はこの御方を追ってみようぞ!

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  • 1991年7月15日、鹿児島県鹿児島市にて生誕。
  • 子の頃は体が弱く、中学では月の半分以上を休んだこともあった。
  • 2005年10月、『AKB48 オープニングメンバーオーディション』の二次審査まで進むも、東京での面接が翌日と告げられ、間に合わず断念。
  • 2006年7月、『モーニング娘。Happy8期オーディション』にて、6883名の中から三次選考へ進んだ25名に残るも落選。
  • 2006年12月3日、『第三期AKB48追加メンバーオーディション』に合格。
  • 2007年4月8日、チームB 1st Stage「青春ガールズ」の初日公演にて公演デビュー。
  • 2009年4月、TBS『ひるおび!』の気象情報のコーナーで水・木曜の担当に抜擢される。当時、朝昼の情報番組の同じ役どころでは最年少であった。
  • 2009年、13thシングル選抜総選挙にて9位。翌年8位、その翌年は3位。
  • 2009年9月、初のソロ写真集『以上、柏木由紀でしたっ』を発売し、年間の同ランキングで1位。
  • 2010年5月21日、新生チームBのキャプテンに就任。
  • 2012年7月13日、中野サンプラザにて初のソロライブを開催。
  • 2012年7月17日、鹿児島県の薩摩大使に就任。
  • 日本化粧品検定1級を取得。走幅跳では鹿児島県の代表に選ばれたことがある。
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柏木由紀の一度は諦めた道

柏木由紀殿は1991年7月15日の生まれ、鹿児島県鹿児島市の出にござる。

まず、この御仁の出発点から申そう。実は体の弱い子であられたのじゃ。

冬になれば必ず風邪をひいて熱を出す。中学に上がっても崩しやすく、多い月には月の半分以上を休んだこともあったという。

その寝込んでおる時に、画面の向こうのアイドルを見て元気をもらった。そこから「私もみんなを元気にできるようなアイドルになりたい」という思いが強くなっていったのだそうな。

ここが良いのう。憧れから入ったのではない。助けられた側だったから、助ける側に回りたかったのじゃ。

さて、そこからの道が、また平坦ではない。

2005年10月、『AKB48 オープニングメンバーオーディション』に応募し、二次審査まで進まれた。東京での面接の打診も受けた。ところが、である。

その面接の日が、連絡の翌日であった。母上に相談したものの、鹿児島から間に合うはずもない。断念するほかなかった。

翌2006年7月には『モーニング娘。Happy8期オーディション』に応募。参加は6883名。そのうち三次選考へ進む25名にまで残られたが、ここでも落選。

十四、五の娘が、二度続けて手前で止められたわけじゃ。ここで諦める者の方が、世には多かろうのう。

ここで、数を並べておこう。世に出てからの選抜総選挙での順位は、2009年に9位、翌2010年に8位、そして2011年と2012年には3位。三年ほどで頂の近くまで駆け上がられたのでござる。

歌って踊る場の外でも、早々に居場所を作られた。2009年4月にはTBS『ひるおび!』の気象情報のコーナーで水曜と木曜の担当に抜擢されてな、当時、朝と昼の情報番組で同じ役どころを務める女性の中では最年少であったという。

だが2006年12月3日、三度目の挑戦で『第三期AKB48追加メンバーオーディション』に合格された。翌年4月8日、チームB 1st Stageの初日公演で舞台に立たれておる。

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柏木由紀の母と二人の上京

ここからが、この記事の本題でござる。

アイドルになると決めた娘が、鹿児島から東京へ出る。その時、この家がどう動いたか。

父上を鹿児島に残し、母上と二人で上京されたのじゃ。

母上は家のことを一手に引き受け、娘の暮らしを支えられた。つまりご一家は、娘の夢のために二つに分かれる道を選ばれたということでござる。

そして、ここからが胸に来る。

柏木由紀殿は上京してのち、四年のあいだ、一度も鹿児島へ帰らなんだ

ようやく帰郷したのは、映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』の撮影で訪れた時であったという。

四年でござるぞ。十代の四年は、大人の四年とは重さが違う。それだけ、東京での日々に必死であられたということじゃ。

母上の言葉も一つ残っておる。昔から「よそはよそ、うちはうち」と言うておられたそうな。

芸能の世界は他人と比べられることが絶えぬ。だが柏木由紀殿は、他人と比べるより自分を伸ばすほうへ気持ちを向けるようにしておられる。その根が、母上の一言にあるというわけじゃ。

親孝行の話も一つ。ご両親は読売ジャイアンツの熱心な贔屓であられてな、柏木由紀殿も小さい頃から親しんでこられた。

その縁で2009年に球団の75周年応援隊に就任し、2012年には東京ドームの開幕戦で国歌斉唱を務められた。

この一件についてご本人は「AKB48に入ってから3本指に入る親孝行」と語っておられる。娘が舞台に立つ姿ではなく、贔屓の球団のマウンドに立つ姿。そちらの方が親には効いたということでござろうな。

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柏木由紀の未来予想図-歩くウィキペディアの現在

さて、柏木由紀殿の現在(いま)である。だがその前に、この御仁の面白いところを並べておこう。

まず特技じゃ。リコーダーとトロンボーンの演奏、音ゲー、タイピング、そしてとうもろこしをきれいに食べること。最後だけ毛色が違うのう。

調べもののはやさは並外れておられてな、「AKB48の歩くウィキペディア」と呼ばれておったという。

学生の頃は吹奏楽部。本当はフルートをやりたかったのだが、背が高く腕が長いという理由でトロンボーンに回されたのだそうな。

そして「GIVE ME FIVE!」という曲では、初めて太鼓を叩くことになった。選ばれた理由が「ドラムは真面目な人」というものであったという。

柏木由紀殿は鍵盤とトロンボーンができると事前に伝えておったゆえ困惑されたが、周りが「柏木が太鼓で大丈夫か」と言うておるのを聞いて、やってやろうと思われた。

その稽古たるや凄まじく、歯、肩、腕、腰、脚が痛み、体の重心が左に傾き、普段立っておる時も首が左に曲がるほどになったという。一方で、それまでできなんだ腹筋運動ができるようになったそうな。何とも極端でござる。

苦手なものもはっきりしておられる。料理が不得手で、卵の殻を箸で剥こうとしたことがあるという。歩くウィキペディアも、台所では形無しでござるな。

近ごろは日本化粧品検定1級を取り、自身の動画の場で気になる箇所を目立たなくする化粧の仕方を公開しておられる。

唯一の断りごとが「すっぴん」であったのだが、「どれだけ化粧で変われるかは、前を見せねば伝わらぬ」と考えを改め、自ら素顔を出すようになられた

好きな言葉は「なんとかなる」。褒めてくれる言葉は宝物ゆえ、それを探すために三時間早起きしておられるという。

憧れのアイドルとして名を挙げておられるのは松田聖子殿と松浦亜弥殿。とりわけ元モーニング娘。の石川梨華殿は大の贔屓でな、「生まれ変われるなら石川さんになりたい」とまで語っておられる。好きな数字が「14」なのも、石川の「いし」の語呂合わせだというのだから徹底しておるのう。

そして思い出してほしい。二度目に落ちたのは、そのモーニング娘。の審査であった。憧れの人のおる場で落ち、別の道で頂へ上られた。人の縁とは、まことに妙なものでござる。

もう一つ。走幅跳では鹿児島県の代表に選ばれたこともあるという。冬になれば必ず熱を出しておった子が、県を背負って跳ぶまでになった。ここにも、この御仁の粘りが出ておるのう。

二度落ちて三度目に受かり、母と二人で上京し、四年帰らず、太鼓で体を傾かせ、いまも素顔を出して人を励ましておられる。この先どのような姿でお主らの前に現れるか、吾輩も楽しみにしておるぞ。

最後にひとつ、吾輩が思うところを申しておこう。この御仁の歩みを追っておると、「よく諦めなんだな」という一点に尽きるのじゃ。一度落ち、二度落ち、それでも三度目に手を挙げた。――多くの者は、二度目で心が折れる。

そして掴んだ後も、この御仁は長く走り続けておる。同じ頃に入った者たちが次々と場を離れていく中で、最後まで残り続けた。――これは、才の話ではあるまい。続けるという才の話じゃ。

「歩くウィキペディア」などと呼ばれるほど細かなことまで覚えておるのも、その場に居続けたからこそであろう。居続けた者だけが、語れることがあるのじゃな。

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今回は柏木由紀殿について調査してみた!

吾輩は柏木由紀殿に対して、二度落ちても三度目で掴み、母と二人で東京に出た姫、と思ったんだがお主は柏木由紀殿についてどう思ったかな?

世の中にはまだまだ、知られておらぬ話が溢れておる。

引き続きこの書記にて調べ、書き記していく所存ゆえまた応援のほどよろしくお頼み申す!

それではまた次の記事にて会おう!

嘘か誠かの判断は自己責任にて!

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