英国大学院を出たDoramonが気になる方の英語に関する情報をピックアップ!!
元トッププロテニスプレーヤーで血液の温度が数度上がる熱いスポーツ解説者、松岡修造さんのご紹介です。
”熱い”って言葉は松岡さんのためにあるような言葉かもしれません。
まっすぐな一言一言に、見ている側もテンションが上がります。
幼少期にお姉さんの影響で始められたテニスですが、当初は優秀なお兄さんと比べられるなど、苦労したようです。
あきらめずに努力した結果、世界レベルのプロテニスプレーヤーとして活躍されます。
トッププロへの道も簡単ではなく、安宿を転々としながら世界で戦っていました。
苦労を知るからこそ厳しくもあり、優しくもなれるのです。
松岡修造さんの略歴
1967年11月6日東京都で誕生されます。
幼き頃からテニスを続け、才能がないとも周りから言われようが気にしない信念の持ち主です。
最終的に世界ランク100位に入る快挙を達成されます。
現在は国内トップレベルの”熱い”スポーツ解説者として活躍されています。
ジュニア選手時代
とにかく元気な少年でした。
才能が早く開花したお兄さんとは対照的に、ただテニスが好きなプレーヤーでした。
それでも腐ることなく湧き出てくる情熱を胸に秘め、練習し続けた結果中学2年生時に全国中学生テニス選手権大会で優勝されます。
その後一時的にテニスへの情熱が薄れるものの、高校時にはテニス強豪校への転校までしてプレイを続けます。
過酷な練習環境も松岡修造さんにとってはむしろ心地が良かったようです。
結果、インターハイにてシングルス、ダブルス、団体戦の全てを制し三冠達成に貢献されます。
運命の出会いで大きく動く
世界的名コーチ、ボブ・ブレットさんとの出会いで松岡修造さんの人生は大きく動きます。
練習を見ていただいたのち、しばらくしてからボブさんからの連絡を受けます。
”明日にでもアメリカ来い。強くなりたければ”と誘われ、決意されます。
反対する母を説得して、単身アメリカへ。英語力はほぼなかったようです。
一つの決断により大きく動き出しました。
当初テニスプレーヤーとしてプロになるつもりはなかったようです。
ボブさんの助言により、挑戦を重ねることにより世界ランク100位に入るプレーヤーになりました。
松岡修造さんの英語学習方法
単身アメリカに渡ったとき、現地の知り合いはボブさんしかおらず、授業では何を言っているかさっぱりでした。
このままではいけないと思い、決意されます。
身の回りにある日本語をすべて排除されました。辞書のみを残し、本、雑誌、ラジオなどありとあらゆるものを封印。
そして日記も英語で書くことにされました。
すると、3か月後くらいから徐々に英語がわかるようになってきたようです。
単語、ジェスチャーを駆使することにより、サバイバルイングリッシュをこの時身につけられました。
松岡さんらしく、コミュニケーションで大切なことは”気持ち”だそうです。
これは私も同意いたします。
気持ちを込めることはコミュニケーションで一番大切なことです。”伝えたい”という気持ちがあれば伝えることはそう難しいことではないです。私の経験からですが、例えば、肉屋さんで鶏肉が欲しいときは、鳥のモノマネをすることで理解していただいたことがあります。
人と人のつながりです。言葉はツールのひとつに過ぎないのです。
まとめ
最初から優等生ではなかった松岡修造さん。
情熱を持ち継続することにより結果を出した努力の人です。
チャンスはそうそう巡ってきません。
人生の分岐点においてより困難な方を選択されました。
過酷な環境を楽しみ、ひたすら努力できる方です。
その経験が後進を育てる力になっています。
千里も道も一歩から。Just do it!!
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